中郡古道(なかごおりこどう)とは?
戦国時代末期、毛利輝元が吉田郡山城から広島湾港までの情報収集のために作った道を中郡道といいます。中郡道は、現在、三篠川に沿って走るJR芸備線と並走する道として残っています。
三篠川沿いの町、井原から口田までの7つの郷土史研究会は、中郡道とそれに繋がる古道を含めて中郡古道と呼ぶことにしました。
そんな歴史のある古道を散策し良さを発見していただきたいと思っています。
マップから気になる箇所をクリックしてみてください。
一覧からご覧になりたい箇所を選択下さい。
① 狩留家駅
大正4年(1915)芸備鉄道(JR芸備線)が開通。現在の駅舎は昭和23年(1948)年に建て替えられた。当時は引き込み線が2本あり、人や物資の動きの多かったことが偲ばれる。
② 紅梅山天満宮
御祭神は菅原道真公で、農耕生活の安定と学問の振興を願って建立された。宝歴9年(1759)に作成された「高宮郡神社御改帳」には掲載されており、260年余りの歴史がある。
③ 西八幡神社
本殿・拝殿は平成6年(1994)に広島市重要有形文化財に指定。創建は不明。室町末期の部材や特徴を残した建築様式で、妻飾りの邪鬼面など美しい彫刻類もある。また、正面の扁額の特徴は、「八幡宮」の「八」の字が対の鳩で書かれていることである。
④ 狩留家本陣 割庄屋跡
本陣とは「大名が宿泊する公認の宿舎」であり、その御本陣が狩留家にも置かれていた。その家が元割庄屋・黒川家で、広島藩主の浅野公が領地を巡行される時や狩りをされる際、宿泊所として使用されていた。
⑤ 胡子神社
江戸時代、狩留家の街道沿いには魚屋・酒屋・醤油屋・鍛冶屋・飲食店・宿屋等が建ち並び、多くの人達が集まり大
変賑わった。町筋の商人達は商売繁盛を願って、明治18年(1885)えびす信仰の御祭神を現在地に勧請した。
⑥ 廣島商業銀行狩留家代理店跡
江戸時代、川舟の開通により、加茂、豊田、世羅等の21カ村の年貢米が狩留家に集積されるようになった。狩留家は舟運事業、割庄屋の設置、搾油産業・「油御用所の設置」等により人の往来や経済の動きも活発になり賑わっていた。明治4年(1871)廃藩置県とともに、割庄屋や油御用所は廃止されたが舟運事業は盛んで「狩留家に行けば何でもそろう」言われるほどの繁栄ぶりであった。大正2年(1913)廣島商業銀行が出店した。
⑦ 中須賀大明神
創建は不明であるが、江戸時代、中須賀には津出湊(年貢米を積み出す湊)が集中しており、三篠川を航行する川舟の安全を願って水の神様、住吉大神をこの中須賀大明神に併せ祀ったものである。
⑧ 薬師堂
薬師堂(薬師さん)寺名は「城平山福寿院寿福寺」という。建立は享徳2年(1453)と言われている。本尊の薬師如来像は行基作と言われている。寿福寺が廃寺になってから薬師堂は順正寺抱えとなっている。
⑨ 城平山 順正寺
天文5年(1536)武田信玄の叔父、重信が甲斐の国より戦乱を避けて来狩し、古城の館跡に順正寺を開基した。最初は真言宗であったが、2代目道加のときに浄土真宗に改宗した。
⑩ 東八幡神社
当時、三篠川では洪水が度々発生し、川の東側の住民は西八幡神社に思うように参拝出来なかった。慶安2年(1649)、三田在住で狩留家の庄屋黒川助左衛門が、西八幡神社から分霊し、東八幡神社を創建した。宝暦元年(1704)狩留家に転居した助左衛門の子九左衛門が東八幡神社を再建した。
⑪ 金毘羅大権現
古城(城平山城)の「一の丸」に鎮座されている。この社は江戸時代中期舟運が栄え、年貢米、燈油、薪などを広島に運んだ舟の航行の安全を祈願するため、航海の神様金毘羅神を三篠川を見渡せる山の上に勧請したものである。
⑫ 野面積み
自然石をそのまま積み上げる方法である。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていない。しかし、排水性に優れており頑丈である。鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16 世紀の戦国時代のことである。
⑬ 水車小屋
狩留家は水車を利用した搾油業で栄え、寛政10 年(1798)藩営の「油御用所」が設置された(他に広島と上瀬野に設置)。そのため経済活動が活発になり狩留家の繁栄に繋がった。狩留家繁栄のシンボルとして平成24 年(2012)NPO 狩留家が『H㎡』の助成金を利用して水車小屋を建造した。
⑭ 山神社
神社の建立時期は不明。湯坂地区には鈩(たたら)跡がある。社には「たたら」の神様「金屋子神」が祀られ、ご神体は鉧(けら)である。
⑮ 天狗の休滝
(やすみだき)
古文書「郡中国郡志」に狩留家の4大名勝の一つと記されている岩。
高さ:11 間(約20m)
横 :20 間(約36m)