▼ 城平山 順正寺の説明はこちら
天文5年(1536)甲斐国から武田四郎尉重信(武田信虎の弟、武田信玄の叔父、僧名重順)が戦乱を避けて来狩し、古城跡に開基しました。信玄が家督相続する5年前のことです。
その頃は狩留家までが安芸守護職武田氏の領地で、三田が毛利氏の勢力範囲と、ここは国境の重要な場所であった。ここに城があったようですが、城主はわからず、廃城になっていました。はかまだれの石垣が城跡の名残を残しています。
当時は福寿院寿福寺の薬師如来を御本尊とし、真言宗でありました。二代住職道加の時、浄土真宗に改宗。これは毛利輝元が浄土真宗を庇護したことによります。それまでご本尊としていた薬師如来像は薬師堂に安置され、順正寺抱えとなっています。
7世住職教意が梵鐘を鋳造しましたが、約260年後の昭和18年頃軍へ供出を命ぜられ、約3年間梵鐘のない時代が続きました。戦後、広島県庁から大釣鐘の払い下げを受け寄付されました。この鐘に彫ってある銘は安永3年(1774)10月に播州赤穂郡中野邑(現在の兵庫県上郡町)で鋳造されたとあります。
本堂の左に大きな石碑があり、これは妙好人浄念の碑で、念仏のありがたいことが書かれています。実は狩留家の町地区に住んでいたといわれ、墓は石碑の裏にあります。